〔from 呑空〕
「マタイ」福音書6章19〜34節の記述は「ルカ」福音書にもあり、イザヤ書34・35章を踏まえているといわれています。
「マタイ」においては訓點訳以来、一貫して「空の鳥」と訳されていて、マタイ的表現のようです。一方、「ルカ」には訓點聖書に“鵜鳥”とあり、文語訳で“鴉”となっています。これが口語訳になると“からす”と、さらに新共同訳では“烏”に(からす)と、ルビが付されています。しかし、24節では全ての訳で「鳥よりも優れた者」と、鳥と一般的な訳となっています。
イエスの時代を私なりに想像してみますと、私的には「カラス」そして「紫アザミ」とする荒井先生の説がピッタリくるように思います。「あのカラスらでさえ」・「(野に)群れて咲くトゲある紫アザミの一つでさえ」(原典に野はないらしい)と語るイエスのコトバはまっすぐ聴衆に届き、納得させただろうと思います。
また、「野の百合」という訳は、「ルカ」では訓點で「百合花」、そして文語で「百合」となっています。「マタイ」では訓點で「野間百合花」、そして文語では「野の百合」。そして、口語訳で「ルカ」も「マタイ」も「野の花」となっているのです。明治大正期の情緒的信仰の一面がうかがえます。
カラスが鷹になりたいと望んで、自らできる限りの努力をしても鷹にはなれません。カラスはカラスとしてこの世を生きねばなりません。
さて、①の作品は書の学びを再開した60才頃のものです。この頃は「神の義」にとらわれ、このコトバを引き出す前振り的なもの、ととらえていたようです。マタイ共同が付け加えている「神の義」は「人の義(正義・不義)」を包みこむ程の大いなるものと解して、26〜29節に33節を加えて表現しています。
その後、敬愛する信仰の友に差し上げる為に②の作品を制作しました。デザイン的で凝りすぎた感あり、ですが、紫アザミとカラスらしく見えますでしょうか。あえて、みコトバをそぎ落としました。「汝、いかに読むか」(ルカ10・26)と問うイエスの声が聴こえたからです。
皆さんは、この「描書」をご覧になってどう読解されますか?
神とイエスに主体的に関わり自覚することは大切なことです。ですから、そのことが他者との違いを競ったり、組み込むためにではなく、自らも変わりうる者として、他者を理解しようとし、できれば共通項を確認する手段となることを願っています。
③の作品は、今年の山口県書作家協会の展覧会出品のもので、酉(とり)年にちなんで、もう一度読み直し、表現してみました。
文言はこれまで通り、韻の美しい私好みの文語体とし、26節のみとしました。
上方には、3千年位前の中国の文字で「鳥」を墨色の変化でカラスっぽく描こうとしました。文献に「カラス」の文字を見つけ出せなかったからです。
カラスは元来、ゴミをあさって下を向いています。今、このカラスは、イエスが「天の父」と呼んでいるお方に向かって目を見開き飛び上がりました。背にある3本のトゲは現実の重さ、つらさで、これを背負って飛んでいます。この世では汚れたものとされているけれども、自分を創り、養っていて下さる大いなるものの意志を自覚し、その「愛なる神」を証ししています。このカラスを自らとして、表現しようと試みました。
上方の「鳥」だけでなく、作品全体を「描書体表現」と称しています。
これからも、イエスにもっと近くある為に聖書に聴き、祈り、友と語り合いながら描きつづけられるよう願っています。 (Don.)
©DONKUU, 2017