溝口 呑空
ニコラさんとゆきこさんは、今、チェコで本の出版が大詰め、大奮闘中です。近々ご紹介させて頂きます。今回は、私の拙い表現作品をご覧下さい。
「平和ならしむる者」の平和は、ギリシャ語のエイレーネーで、ラテン語のパクスロマーナではないということを知りました。これを私は、「神による無条件の平和」と解し、インマヌエルのイエスを指しているのではと考えます。
世界はひとりの神によって成る多様な被造物の共存の場だと言えます。ヒトはこの世界で、神への畏敬と生命あるものへの尊敬を持って、ひとつひとつの「いのち」と誠実に向き合うことが求められていると思います。「平和」は、ここから生じてくるものでしょう。
とかくヒトは、自分や群れを守ることを「平和」だと勘違いしてしまい、強力な力を持って他を従わせようとしてしまいます。イエスの時代にも、強力な力(武力)を持つローマに従うことが群れの安全を保つことを、現実的判断としてしまったのでしょう。
「和をもって尊しとなす」と申しますが、これは「和して同せず」そして、「違いて侵さず」の意を含んでると思います。同じでない、違うものに対する人間感情をヒトは互いに理想的思考で乗り越えられるのでしょうか?
キリスト者は、ひとつのいのちをも、失わせないインマヌエルのイエスを、自分のキリスト(救い主)とすることを基としています。しかし時折、私たちは平和を目指す中で、独善的になり、敵をつくり出し、味方を集めようとしてしまいます。思いに反して、パクスロマーナ型平和になってしまうのです。そして、「こんなハズではなかった」と後悔します。
このように弱く危険性をもつ私たちは、このことをよく認知し、注意しながらも、臆することなく、イエスが身を持って指し示めされた「エイレーネー」を世に示してゆきたいものです。
私は、自分の思いを捨て、今与えられている物を神に感謝してもちい、主に従ってゆく証しの歩みを続けてゆこうとしているのです。 (Don.)
©DONKUU, 2019