母が亡くなる1週間程前のことです。容態は、その時が近いことを示していました。いつものように枕元で祈ろうと母の顔を見ると、そこには厳しくキィッと口を閉じた表情がありました。
私は声を飲みこみ、黙祷しました。
祈ることで今の母の心は安らぐだろうか?
これまで、私自身の思いをおしつけていたのではないだろうか?と思ったからです。
私は母に「あなたは毎日、朝に夕に、ご本尊に『般若心経』を唱え上げていたよネ。僕は、あなたが心穏やかに過ごせることを今一番望んでいるから、明日、ここで『般若心経』を書いて一緒に読もう。」と告げました。
そして、翌日、妻と共にそのようにしました。
母の表情はやさしく、その目には涙がありました。
その後、3度、脈拍が10台まで下がりましたが、そのたびに回復し、私と妻と息子の3人が揃うのを待っていたかのように、私たちが見守る中、息を引き取りました。
看護師たちから、「胸に置いてある『般若心経』がそうさせたと思っていますヨ。」と聞きました。
私の行為は、キリスト者としてあるべきことではないと非難されるか、そうでなくても、模範とはならないことでしょう。
「伝道の書」には、「空」なる人の業について記されています。
『般若心経』にも「空」が何度も出てきますし、私も「空」を雅号として使っています。
だからといって、これらが同じ意ではありません。
同じ「伝道の書」には、「神の為したまふところは、皆その時に適ひて美しかり」とあります。
今も私は、「神の時(カイロス)」が母にもたらされ、天の愛なる神のあわれみによって、み許への帰天がゆるされる「その時」が来るようにと、祈りつづけているのです。
9月にチェコへ行ってきます。
昨年、チェコからカリグラファーのニコラ夫妻と、アーティストのユキコ・タイマさんが来日し、礼拝を守り、3日間、我家で「書と日本文化(幽玄)」について意見交換をしました。
今年は、妻と姪と3人で会いに行くことにしました。
神がこの機会を通して何を与えて下さるのか、ワクワクしながら、出発の時を待っています。 (Don.)
©DONKUU, 2017