溝口 呑空
マタイ福音書5章「イエスは群衆を見て山へのぼられ」に始まり8章1節「イエス山を下りし時、多くの群衆がこれに従う」までの3章にわたって記されているのが「山上の説教」です。その冒頭「幸福(さいわい)なるかな」の8つのみコトバが今回のテーマです。最初の初題なので8つ全て描きました。レスポンスは、この箇所から与えられるインスピレーションのまま、互いに自由表現できればと願っています。観て下さる皆さん、3人の表現対話を味わい、ご意見をお寄せ下さい。
イエスについて山にのぼっていった群衆の大半は、当時の神殿体制下、律法を盾にした慣習や税金・捧げ物など多くの規定で成り立っている不平等な格差社会の中で、息苦しさにあえいでいる民衆であっただろうと推測します。イエスはこの民衆にまづ「幸福(さいわい)なるかな」と、意外な祝福のコトバを投げかけます。なぜ(さいわい)なのかというと、神は「持っていないあなただからこそ与えて下さる」と逆説的説明をされるのです。その裏付けは、イエス自身が確信している「神がいつも共にいて下さる」(インマヌエル)の信仰でした。この8つのみコトバには言外にこの「神、共にいませばなり」が語られていると思います。
イエスは、旧約時代に為政者や権力者を批判視していた預言者たちに心を添わせながら、理不尽な社会に生きなければならない聴衆に寄りそい、がんじがらめにしている律法から解き放つ道を歩むことの表明をされたのだと受け止めています。事実イエスは、木にあげられるまでこの道を歩まれました。
イエスの説教は聴衆の共感を得、山を下りる時には多くの人たちが従いました。その理由を記者は「学者らの如くならず、権威あるものの如く」と記しています。イエスのインマヌエルの確信に満ちたコトバは一人ひとりの心に届き、聴衆は教えを受けたのではなく、ありのままの自分自身が神のみ手の中に受け入れられていることの喜びに満たされ、イエスに従っていったのでしょう。この時のイエスは神の子としてでなく、人の子としてご自身を示されたのだと思っています。だからこそ多くの人たちは共感することができたと考えています。
今このみコトバを聴き、既にイエスの歩まれた道を知っている私は、今以上にこの人たちと同じくイエスに従ってゆきたいと思っています。この道は非現実的で理想主義・夢想家の道だと言われるでしょう。それを承知の上で私なりに汗をかきたいのです。そう決意できるのは、キリスト・イエスがいつも共にいて、私の苦しみと同じく苦しまれ、同じく悲しまれ、また喜ばれるからです。私はこのことを、毎週の主の日の礼拝式での派遣の祈り・祝祷、月1回の聖餐式での祝祷を牧師から受け、確認するのです。
この「幸福(さいわい)なるかな」は、矛盾に満ちた現実社会に生きる私の『キリスト道』を指し示すと同時に、この道を歩まんとする全ての人たちに、勇気と励ましを与えてくれる筈です。 (Don.)
©DONKUU, 2018